「狭き門より入れ」
2009/Team申/作・演出:前川知大/出演:佐々木蔵之介、市川亀治郎、中尾明慶、有川マコト、手塚とおる、浅野和之
公式HP:ttp://www.parco-play.com/web/play/semaki/
舞台はコンビニ。会社を退職してきたばかりの主人公・天野は、父親が倒れたという知らせを受けて、実家のコンビニに帰ってくる。
自分なりの正義を貫いてきたつもりだった天野。でも、気がつくと大義のために弱者を切り捨てることに何の感情も持たない人間になってしまっていた。
そんなとき、天野の前に、7年前に死んだはずの親友・葉刈が姿を現す。
「世界の終わりと新たな始まり、更新の日は近い。」
狭き門を通るのは誰か。そのための条件とは何か。
前知識はタイトルと役者陣のみだったので、もっと抽象的な舞台かと思いきや、物語自体はとても分かり易く、誰の心にもリンクしやすいものでした。舞台上にコンビニがあった時点ですごく驚きましたよ。こんな身近な場所が舞台なんて!
コンビニの時計が現在の時間(開演前だから、19時直前ね)にぴったり合ってることを確認。あの時計が何か関係するのかな~とか思いつつ(異様に光ってたし)。舞台上のことが現在進行形で起こってるような感覚を覚えました。なので物語中、自分自身が選択を迫られてるような気がしましたよ。
私なら、どうするだろう。
舞台上のことが、本当に起こっててもおかしくない。(まぁ、宇宙は誰かの腹に繋がってるって言いますしね。笑)
もし、それを知ってしまったら、私ならどうするだろうか。
選べるとしたら、どちらを選ぶのか。
タイトルの「狭き門より入れ」は、新約聖書の言葉です。
「力を尽くして狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者多し。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出す者少なし。」(新約聖書のマタイ福音書第7章第13節)
ここからネタバレ入ります。反転!
新世界へ行ける条件は、自分自身に対する意識を捨てられる者?だったのかな?こぶとり爺さんの例え話は壮絶でしたね。
狭き門は、ほとんどの人が選ばないはずの道。もともと狭いわけではなく、わざわざ辛い方を選ぶ人は少ないってことですよね。しかもそれを、自然な感情で選ぶ人。
狭き門を通った人だけが行ける、膿みを切り離した理想的な社会。
しかし所詮は、誰かの手によるノアの箱舟じゃないか。という疑問が起こります。
切り捨てて出来上がった社会、傷を忘れてしまった純粋な赤ちゃんたちの社会も、きっとやがてどこかにまた歪みが起こり、岸や葉刈が属する組織?がまたそれを切り離す。そのことが前提で行われている更新なのです。
それを繰り返していくことが、本当に世界が良くなるということなのか。その世界に属して、本当に幸せなのか。
傷を忘れたくないと、天野は言う。
そう、狭き門を目指す人はきっと、そう思うことでしょう。その人たちを別に新しくあつらえた箱庭に閉じ込める。ああ、勿体無いなぁ・・・と思わずにはいられません。本人達は望んでないのになぁ。
つか、そういうことをする時点で岸や葉刈たちは新世界への資格があるとは思えないんだけど・・・(正直、最終的に旧世界にいっしょに残るのかと思ってました)
新世界への資格を持たなくてはならない、柱。
彼らが柱を旧世界に残していったのは、パンドラの箱の底の希望なのかな。絶望して切り捨てる中で、もしかしたら、っていう希望なのかもしれない。可能性を、捨てきれないのかもしれません。
少なくとも、葉刈は天野に何かを期待しているような気がする。
どこまでもどこまでも絶望して、その中から見出す僅かな希望。
天野の選択こそが、私たちにとっての希望ですよね。
ラストの彼の台詞に、胸がいっぱいになりました。
「ゴミ溜めの世界が、こんなに美しいとは。」
新世界よりも、私は天野の残った世界にこそ、期待を寄せずにはいられない。
これは、滅びの物語ではなく、究極の再生の物語なんです。
そのために何が必要なのか、天野が出した結論が教えてくれたのです。くだらないとか、つまらないとか、そんなことばっかり言ってちゃダメですね。
私にできることは何なのか、考えなくては。
狭き門をこそ、選べる人になりたいですね。
ああ、何か言葉が足りない気がする。あのラストの言葉を聞いたときに感じた震えの意味について。まだ何か足りない気がする。
後から後から、色んな思いがついてくる物語でした。
その物語を凄まじい迫力で演じられた役者陣の方々、本当に見事です!